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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2023年06月04日

今年2023年こそは墓参りを実施します。

2023年の今年は真田先生の命日が土曜日という事もあり、なんとか墓
参りを実現したいと思う。
できるだけ大勢で集まれたらいいと思っている。

ようやくコロナが収まり普通に戻りつつある。
コロナを言い訳にするつもりはないが、やはり集まるのを躊躇したことは
事実である。
まだまだ身近な人が感染したという話を聞いたりしていると、まだまだこ
れからどうなるのか心配になる反面、グズグズしてるとどんどん時間が
過ぎていく焦りも出て来る。
若い人たちにはこの感覚は分からないだろう。

開催日時・場所は
2023年8月26日土曜日午後4時~
山形市鉄砲町2丁目5-7
光禅寺(真田家菩提寺)

是非ご参加ください。  


Posted by desiko at 15:20Comments(0)

2022年09月03日

コロナ禍もすでに3年目。もし真田先生が存命ならどう生きただろうか?

別にコロナを言い訳にするつもりはないが、真田先生の命日も何もす
ることもなく過ぎてしまいました。
先輩のH.I氏にメールして帰省する予定がないか尋ねましたが、先輩
もいろいろあるようで、予定はないようでした。
近くの友人Y君に電話しようとも考えたけど、今年は都合の良い日に
一人で行くことにしました。

そんなことを考えていたのですが、あっという間に9月に入り少し焦
っています。
2~3日中には行きたいと思っています。
どなたかご一緒する方いませんか?  


Posted by desiko at 19:34Comments(0)

2022年04月03日

懐かしい話を思い出させてくれた同級生W君

同級生のW君が、懐かしい話を思い出させてくれた。
一言二言世間話をしていたら、そう言えば生徒会長だったかに
立候補したよね?と、聞いてきた。

生徒会長など恐れ多くも立候補するわけはなく、郊外部長とか
いう生徒会の組織の中の部長に立候補したことがあった。
記憶では、1年、2年と郊外部に所属したのがきっかけで、最高
学年の年には部長になると思ったのだろう。正直なところ正確な
記憶がない。ただ、ここで真田先生が出てくるのであるが、生徒
会の仕事は部活の時間と重なるので、これまでの先輩方が生徒会
の要職(たいしたことではないけど)に就くことは無かったと聞いた。

真田先生に呼び出されてそのことを知らされると同時に、立候補は
してもいいけど、「部活のために何とか落選しろ」という指示が出
された。体育館で立候補者の演説会があり、4人くらい立候補者が
いたと記憶しているが、思い上がりもいいとこで、勝てそうな気が
していたため、自分で立候補しておきながら、「部活に専念したい
ので、落選させてください。」と、開口一番言ってしまった。どう
いう訳かこれが大うけで当選してしまった。

後で聞いた話では、並み居る強敵にはこの方法しかないと、真田
先生が策を授けたのではないかということでした。考えてみると、
記憶の中にある立候補者でF君なんかは、当時から成績も良く、
一流大学を出て外交官として世界中を飛び回っているという話だし、
頭の出来も適任者だったという話を聞きました。
そんな優秀な連中が立候補している中では、捨て身の戦法しかない
と、真田先生が思ったのかどうか・・・聞いておくべきだったなぁぁぁ  


Posted by desiko at 15:05Comments(0)

2022年01月11日

高校時代の柔道の恩師沓澤先生が亡くなられた

2022年元日に高校の柔道部の同級生より沓澤先生が亡くなられたとの連絡をもらった。
中学時代の真田先生、そして高校時代の沓澤先生、ともに私にとって柔道の恩師が二人とも他界された。
いずれこの日はやってくるとは思っていましたが、現在のコロナの状況がなければ、同級生や先輩後輩が集まり恩師にお別れをしたことでしょう。
真田先生に出会わなければ、真田先生の厳しい指導がなければ、高校の恩師の沓澤先生には会うことはなかっただろうし、たとえ会ったとしても高校3年間柔道を続けられたかわからない。
と、思うと自分の人生においていかに真田先生に出会い、教えをいただいたことが活きているのかを知らされる。

また、真田先生の教えをいただいた先輩がいたことも大きいと思う。
高校入学当時は、新学期が始まる前から先輩から練習に参加するよう言われていて、全く強くなかった俺でも、最初の頃は同年代生から先輩だと思われていた時もあった。
それだけ特別扱いしていただき、先輩方には本当に世話になった。
それもすべて、真田先生の教え子がこれまで築いてきたことがあったからこそと思う。
そして沓澤先生にもとてもお世話になった。
それは沓澤先生が、真田先生を一目置いていたからに他ならない。  


Posted by desiko at 10:57Comments(0)

2021年07月30日

上半身裸で練習させて教諭謝罪?

とある中学校のバスケの部活中、忘れ物をしたことに腹を立てた
教諭が上半身裸で練習させて、それが生徒の父兄からの指摘で
学校が謝罪し、教諭も謝罪したとの記事を目にしました。
教諭は部活の指導からも離れて謹慎しているとのこと。

時代を感じる。
こんなことで部活を指導する教諭がいなくなり、どんどん縮小され
つつある。
その教諭は生徒たちに信頼されていなかったのだろうか?
部活から離れて当然の教諭だったのだろうか?
もし、そうでなければ誰のために部活から離れて指導を止めるの
だろうか?
万一そうだとしても指導者がいなくて部活ができない生徒たちの
事を考えると、そこまでの問題なのかと首をかしげてしまう。

我が愛する真田先生は、何も悪いことをしなくても、度胸を付け
るためにと、裸にさせた。
また、街なかで歌を歌わされた。
寒い時はこれが一番と、裸足で雪の上をランニングさせられた。
今考えるととんでもないことだと思われる人も多いと思うが、
絶対的な違いがある。
アイフルの宣伝ではないが、そこには「愛」があった。
先生を信頼するに足りる「愛」があった。

しかし、現代においてこの「愛」は、どんな形でも支持されない
かもしれない。
我々は、いい時代に真田先生という素晴らしい先生に出会え
て幸せだった。
今の生徒たちは、残念ながら我々より不幸かもしれない。

  


Posted by desiko at 07:21Comments(1)

2021年04月19日

真田有規ism男女の会話

真田有規ism男女の会話

真田先生は柔道部の顧問で中学の3年間お世話になったが、さらに中学2年と3年にはクラス担任でもありました。
今で言う「チャラい男」が大嫌いらしく、
「いいか、男は女とヘラヘラしゃべるもんじゃない」と、言われた。
その時以来、自分が思っているだけかもしれないが、ほとんど女子との会話の記憶がない。
唯一、T子さんとは話というか、服装や態度について言い合いをした覚えがある。
当時は学生帽や制服は、ボロいほうがカッコいいと思っていた時期で、信じられ
ないほどボロボロの帽子をかぶり、カッコいいと思っていた。
それを T子さんに何か言われて言い返したことから、T子さんについていろいろ
言った記憶があります。
今考えると本当に申し訳ないようなことを言った事もあったと記憶してます。

T子さん以外では話した記憶がほとんどないので、この2年間は間違いなく
「チャラ男」ではなかったと思う。

久しぶりにT子さんとばったり会ったが、いい奥さんになっていた。
幸せそうで何よりだと思った。
ただ、残念ながら話が続かない。しゃべったことがあまりないからかも。
そんなもんなのだろうか・・・
同級生にこの話をしても、誰も同調するのがいないところを見ると、勘違いかもしれないと思う時がある。
真田先生・・・言いましたよねぇ~  


Posted by desiko at 07:23Comments(0)

2020年08月15日

また8月を迎えました

これといった投稿もせず、また8月を迎え真田先生の命日を迎えることになる。
今年の命日には残念な報告をしなければならないのが少し辛い。

先生が存命なら覚えていただろうか・・・・
我々が中学2年の新学期に先生から
「男子は坊主頭、女子はおかっぱ、それ以外の髪形は禁止する。」
と、新学期が始まって間もなく言われクラスが変な雰囲気になったことを‥‥

俺は柔道部だからすでに坊主頭で、柔道部にあるバリカンで皆と刈り合いを
するので、五厘刈りで青々してましたので、仲間が増えるんだぐらいにしか考
えてませんでしたが、別にがっかりしなくてもいいと思う女子も含めて、男子の
中でも「絶対坊主にしたくない」と、思っていたのが相当数いたと思います。

以外に女子は、妙におかっぱの似合う女子もいましたし、みんなそれなりに
かわいくなったのではないかと思いました。遠い記憶ですが・・・
その中で、短めのスポーティーな髪形で、ちょっとカッコイイ男子で、最後まで
抵抗して坊主にならずにいたとO.K君でしたが、とうとう真田先生が自らバリ
カンを持参し、真ん中の毛を刈るという暴挙に出ました。

現代では絶対アウトな暴挙ではありましたが、当時はそれほどの事でもない
という雰囲気の中、「言うことを聞かないからだ!」っていう感じでした。

そして、休み時間に柔道部で使い慣れたバリカンで、そいつの頭を綺麗に刈
ってあげたことがありました。

その最後まで抵抗したO.K君が先月亡くなりました。65歳になったばかりで
した。
コロナ禍の葬儀は静かなもので、一般会葬者は30分前から焼香のみで、
会葬者はごく身内の人と指定された友達5人だけとなりました。

弔辞などがなく長めの御経だけの葬儀中は、こんなことを思い出しながら、
このO.K君の分まで長生きして楽しまなければと心に誓いました。

あの世で真田先生と再開したら、O.K君はどんな話をするのかなぁぁ
  


Posted by desiko at 14:24Comments(0)

2020年02月15日

第50回記念伝進館長杯柔道大会開催

第50回という記念すべき柔道大会が開催されました。
伝進館長杯柔道大会です。

50年以上前のこと、上山市内には中学・高校の各学校の柔道場
以外の道場は、上山警察署にあるだけでした。
警察署ということから、使用するにはいろいろ手続きが必要だった
らしく、一般の人の練習に使われることは少なかったと記憶してま
す。
当時の上山市柔道連盟の会長であった小林医院の医院長の、
小林傳一郎氏は、自分の敷地の中に柔道場を建設して、市内の
柔道家の技能向上に一役かおうと建設されたのが、
「傳進館」です。傳という字があまり使われないため、「伝」にな
ってますが、正確には「傳進館」です。

この道場建設に当たっては、真田先生の並々ならぬ熱意と努力
があったものと思われますが、私は当時まだ中学生でしたし、何
より、この傳進館での練習がとてもいやで仕方なかった一人でし
た。

真田先生は、強くなるためには強い人と練習しなければならない
という指導の一環として、よくこの傳進館の練習に我々を連れて
来てくれました。

中学生のまだまだ未熟な者が大人と練習しなければならないとい
うことが当時は嫌で仕方がなかったのですが、真田先生の情熱
の表れであったと今では感じます。

そして、この道場の館長である小林先生の協賛で第一回の館長
杯柔道大会が開催されたのですが、私の記憶では1971年秋だ
ったと記憶してますが、どうも定かではないです。

当時はスポーツ少年団がなかったために、中学校の部と高校の部
一般の部の3つのタイトルがあり、私は高校一年でしたが、参加して
なんと見事第1回の優勝者となることができました。

また、真田先生も一般の部に参加されたと記憶してます。
戦績はすいませんが忘れてしまいました。
その後年を重ねて第50回記念大会が開催されたことに何か感慨
深いものを感じた一日でした。  


Posted by desiko at 09:38Comments(0)

2019年02月26日

先生の息子が柔道界で有名な指導者になっていた。

真田先生は36歳という若さでこの世を去ってしまった。
さぞ、心残りであったことだろう!!
これは子供を持つ身になったからこそ思えることだと感じている。

先日ある会合で中学時代の柔道部の後輩から、真田先生の
息子さんが中学校の先生をしていて柔道を教えていることを
知らされた。

そのことだけでも、もう涙をこらえるのに必死だった。

そして、スマホでその息子さんの写真が掲載された記事の画面
を見て、溢れる涙を抑えることができなかった。

真田先生と本当によく似ていたからである。
ただ、当時の真田先生はもうちょっと迫力があり、貫禄があった。

息子さんがそれに及ばないのはしょうがない。
なにせ息子さんなのだから・・・

なぜ、ネットで紹介されていたのかについては
また近いうちにアップしたいと思う。  


Posted by desiko at 23:55Comments(1)

2019年01月04日

昭和45年11月25日三島由紀夫事件

昭和45年11月25日に三島由紀夫がクーデターに失敗し、
割腹自殺するというショッキングな事件が起きた。

その翌日だったと記憶しているが、真田先生の授業の時
間のほとんどを、三島由紀夫についての話に費やした。

何故、あのような事件を起こしたのか?

何故、割腹自殺という方法をとらなければならなかったの
か?

ろくすっぽ本も読まないボンクラの俺にしてみれば、「馬の
耳に念仏」状態であるはずが、真田先生は三島由紀夫の
生い立ちから現在の思想、作品の内容を解りやすく話して
くれた。

今思うと、真田先生は三島由紀夫に心酔していたのだろう。

何冊あったかも記憶にないが、三島由紀夫の本をたくさん
持ってきて、「潮騒」という本を俺に貸してくれた。

単行本のようなものから文庫本もあったと思う。

「潮騒」も、ふ・り・が・な・があったので読めたが、難しい文
字や言葉使いが多く、難解だったと記憶している。

その後の人生で、三島作品の映画を見たり、三島事件の
ドキュメント風映画を見たりして、少しは理解したつもりで
いるが、三島由紀夫の作品や事件の事を目にすると、真
田先生を思い出す。

三島由紀夫は自らの手で46歳ほどで命を絶ってしまった
が、真田先生は36歳という若さで病死している。

三島由紀夫があの時自決していなければ・・・・・
真田先生の癌が治っていたら・・・・・

何かが変わっていたと思う。
何かを変えていたと思う。

全く違う時期で、全く違う事なのに、何故か繋がっている
気がするのは俺だけだろうか・・・・  


Posted by desiko at 18:17Comments(0)

2018年09月03日

過ぎてしまった命日

この8月は例年いろいろ忙しく、26日の命日に何もすることができないまま過ぎてしまった。
ただ、言い訳になるかもしれないが、お墓に行ってもそこに先生がいる訳ではなく、我々の心の中にいるのであるから、墓参りだけが目的ではないと、都合のいいように解釈している。
そのうち墓参りには行きますから、真田先生・・・・・  


Posted by desiko at 07:27Comments(0)

2016年08月16日

真田有規ismトイレ

真田有規ismトイレ

真田先生は授業中トイレの話をし出した。

なぜトイレの話になったのかは思い出せないが、

「速飯・速糞芸のうち」というゴロのよい言葉と共に

話してくれた。

両方とも健康的に考えれば褒められたことではな

く、「速飯」は咀嚼回数が少ないため消化が悪く、

「速糞」はいきみ過ぎて痔になる可能性が大であ

るが、もののたとえだったと思っている。

誰よりも「速飯」・「速糞」すれば、人よりより多くの

時間が作れるということを言っていた。

特に具体的には「速糞」は3分以上トイレにいるな

という教えだった。

歳をとると「速飯」はだんだん遅くなってくるし、「速

糞」なども中々3分では済まなくなってきている。

でも、まだまだ人よりはかなり早い方だと思ってい

る。

だからなんだんだと言われそうだが・・・・(笑)
  


Posted by desiko at 18:04Comments(0)

2016年08月09日

卒業後最初で最後の同級会

先生を呼んで同級会を計画した。
確か1978年(昭和53年)だったと思う。

22歳~23歳になり
大学へいった奴も地元へ戻ったり、
そんな年度の始まった夏だったと思う。

魚屋の2階にある宴会場で、比較的安く
会費を設定して実施した。

40人ほどに案内を出したと思うが、
25人くらい集まったと思う。
男が15人くらいで、東京や様々な所か
ら集まったと思う。

女は明かに少ない感じがした。
これは真田先生にも責任があると思っ
ている。
先生は髪型について、男は「坊主」女は
「おかっぱ」以外認めなかった。

また、「男尊女卑」という主張をして
男はヘラヘラ女としゃべるものではない。
という教えで、クラスの女子とはまともに
話などしたことがなかった。

そんな状況で卒業したのだから、女子は
良く思っていなかったのだと思う。
でも、その時はそう思っていたが、歳がた
つにつれて、いろいろ話をしていくと、先
生には本当に感謝している。
という話をよく聞くようになった。

男女を問わず、生き方というか、人生の
在り方を話してくれてた気がする。

先生はその時、今一番大切にしているこ
とや、面白いと思っていることを一人一人
聞いた。

他の奴のことは全く忘れたが、俺は
「商売で現金を数えている時が一番楽し
い」と言ったことを覚えている。

先生は、「守銭奴にはなるなよ」と、言っ
たことが頭を離れない。

これも、俺の人生の中で頭の中に刻印さ
れて、決して消えないことである。
もし、この教えががなかったら、俺はどう
なっていたのかと思うと、他人に後ろ指を
指されることもなく生きてこれたことに感謝
したい。

今後何度か先生と会うチャンスがあれば
もっと別の人生を歩んだかもしれないが、
俺の人生は、先生に救われたことに間違
いない。

しかし、残念なことにこれが最初で最後の
同級会になってしまった。  


Posted by desiko at 17:40Comments(0)

2016年03月26日

上山市体育協会より功労賞をいただいた

上山市体育協会より功労賞をいただいた
これはそのまま真田有規先生に捧げたい。

先生に出会い、柔道と共に人生を歩んできた。
柔道のお陰で友達も出来た。
人生の想い出もできた。

今、ここに先生が生きていたら
きっとこの受賞は喜んでくれただろう。

細々と、コツコツと、真面目に取り組んだ姿を
きっと喜んでくれるだろう・・・・。

でも、これをいただけたのは先生のお陰です。
柔道に出会わせてくれた先生のお陰です。

これからの人生、先生の分もがんばります。
2020年のオリンピック、パラリンピックには、
駐車場係でもいいから関わりたいと思っている。

先生と一緒に関わりたいと思う。  


Posted by desiko at 23:29Comments(0)

2014年09月29日

今日から心機一転、真田有規先生の実名を表示する。

これまで、正直なところ手探りであった。
こんなブログ書いていて真田有規先生の親族に
何か影響が無いのかなどと・・・・・


先日、真田有規先生の教え子の先輩が尋ねてきた。
真田有規先生の思い出話を聞いてまわって、本に
まとめたいのだという。


その方は同級生のみならず、同窓生で真田有規先生と
かかわりのあった方を回っているという。

あーーここにも真田有規先生を愛する方がいた。
そう実感した。


もしかしたらもっともつといるかもしれない。
だとしたらこのブログも真田有規先生の実名を
出して、いろいろご意見や情報もいただかなければ
ならないと思い、真田有規先生の実名としました。

今後とも宜しくお願いいたします。
  


Posted by desiko at 07:11Comments(0)

2013年10月11日

真田有規ismラーメン

真田有規先生の生き方で、いくつか教えをいただいた。

ラーメンのスープは最後まで全部飲むべし。

ラーメンはスープが命

全部飲みきれないと思うなら、麺を残せ!!

その教えをいただきながら、いつの日かラーメンを

柔道部全員でご馳走になった。

その日以来、スープは残さないと心に誓った。

最近年のせいか、脂の多いラーメンや味の濃いラーメンは

全部飲み干せなくなった。

でも、今でも、いつも、ラーメンを食う時は

先生を思い出す。  


Posted by desiko at 08:45Comments(0)

2013年09月30日

部活は楽しい(地獄の訓練??)

ある日、突然部員全員で走って街の真ん中の
交差点で四方に分かれて歌を歌った。

なんの歌だったかは忘れたが、大きな声で、
全員で歌った。

そして、その後一人ずつ歌った。
声が小さいとやり直させられた。

町の人たちは何事かと見物に来る。
恥ずかしい・・・なんて思う暇も無く
歌った。

度胸付けということだろうが、今なら
体罰とかというカテゴリーで分類され
新聞沙汰になっただろう。

でも、こんなことを「地獄の訓練」と称して
お金を取って主催しているところもある。

私をはじめ柔道部は、中学にしてこの
「地獄の訓練」を無料で経験している。


  


Posted by desiko at 21:10Comments(0)

2013年09月30日

部活は楽しい(裸泳ぎ)

なんといっても、誰もが認めるのが、裸泳ぎである。
柔道部恒例の川原での裸泳ぎ。
裸で泳ぐのは当たり前と思っている人も多いと思う
が、すっぽんぽんである。

まず、川原まで走らされる。最初は柔道着を着たまま
グランドの脇の道路を走らされる。

川原に向かって走り出すと、バレー部や陸上部、
ソフトボール部の女子が「またか」といった顔で
見てみぬ振りをする。

帰りにフリチンのまま帰らされるので、すでに
笑っているのさえいる。

ちょっと順序がばらばらになったので、もう一度
最初から説明すると・・・・

柔道着は着たまま走って川原に行って
川原を堰きとめてプールのようにして
全裸になって泳ぐ。

泳いだ後は、全裸のまま柔道着をかついで、
フリチンのまま、グランドの脇を通って帰ってくる。

恥ずかしいが、絶対隠すことを許さない。
有田先生は「堂々と歩け」と言って隠させない。

それをグランドで練習している女子の部活の
生徒が見てみぬ振りをしている。というか、
正直、女子を観察する余裕が無かった。

柔道部のこのことは、我々年代の人は必ず
言うだろう。  


Posted by desiko at 07:29Comments(0)

2012年07月20日

もうすぐ命日・・・

8月26日は真田有規先生の命日である。
なんとかこのブログで先生のことを伝えたいと思い、
開設したのにこのざまである。

何とも情けない。

だが、真田有規先生の教え子たちで命日に集まろう
ということが決まった。
ちょうど今年は土曜日ということもあり、集まって
昔話に花を咲かせたいと思う。

  


Posted by desiko at 15:51Comments(0)

2010年05月21日

部活は楽しい

部活は楽しかった。もちろん柔道の練習はきつい。
「うさぎ跳び」は毎日だった。今では考えられないだろう。
この方法が体を鍛え、柔道に役に立つと真剣に信じて疑わなかった。
いっつも俺と小鉄はビリ争いだった。
ほかの同級生は俺達2人のはるか先を行き、いつも俺達2人を
待つという展開だった。
走らされても、腕立て伏せも、腹筋も、すべて同じだった。

でも、先輩達はやさしく厳しかった。
うまく表現できないが、厳しい中に愛情があった。
とでも言うべきか・・・・
そして、真田有規先生もそうだった。
指導者の考え方が良く伝わっていたと思う。

俺はいつも小鉄に救われた。
小鉄にだけは負けまいと努力した。
小鉄はどう思っていただろう。
卒業後接点はたくさんあったが、音信不通だ。
今思うと、小鉄に負けないことが唯一の救いだったかもしれない。

その中で、柔道が強いとか勉強ができるとか、がんばれば
できること以外で、どうしても勝てないヤツYがいた。
Yは、両親がいない。妹と2人兄弟で、おじさんに育てられてきた。
この状況は決して近づくことができない事実だった。
想像もつかないものであった。
でもYは、どこをとっても、ひとつも曲がったところがない
すばらしい人間だった。
勉強も学年で1~2番を争っていた。350人もいる
中の1~2番だから、すごいと思う。
そして、勉強のできるやつ特有の雰囲気がまるでない。
いつもニコニコしていて明るい。


このYのことは自分の子供にもよく話をした。
子どもたちは「わかったわかった、100回は聞いた」と、
言うが、きっと気持ちは伝わっていたと思う。
本当に尊敬するし、自慢の同級生である。

そして、そのYのおじさんもすごいし尊敬する。

親がどうのこうの言って ”ワル” してるやつは、
Yの爪の垢でも煎じて飲め!・・・と、言いたい。
Yは決してそんなことは口にしないだろう。
自分の境遇などを武器にしないだろう。

当然そんなYを真田有規先生は特別扱いしない。
俺達ボンクラ(凡人)は、人の倍は努力しろ!
Yを含め全員に言っていた・・・・・

  


Posted by desiko at 07:13Comments(0)